障害者は子供を産んでいいのですか?
優生思想に触れた日、身体が覚えていたこと
—「障害者は子どもを産むな」と言われたときに起きたこと—
私は、双極性障害を抱えている。
発症のきっかけは、職場でのストーカー被害だった。
当時は、人格を否定される言葉や過干渉が続き、
気づけば身体のほうが先に壊れていった。
全身の痛み、呼吸の違和感、そして「消えたい」という感覚。
その延長線上に、いまの自分がある。
ある日、親しいと思っていた人から、長文のメッセージが届いた。
内容は、いわゆる「命の倫理」についての話だった。
その中に、こんな趣旨の言葉が含まれていた。
・命は親のエゴではないか
・特性を持つ人間が子どもを持つことはどうなのか
文脈としては明確だった。
「あなたのような人は、産まない方がいいのではないか」
そう言われているのと同じだった。
驚いたのは、感情よりも先に身体が壊れたことだった。
・両手足のしびれが止まらない
・耳鳴りが続く
・呼吸が浅くなる
これは以前、ストーカー被害を受けていた時と同じ反応だった。
つまり私は、その言葉を
「意見」ではなく「脅威」として受け取っていた。
頭では理解している。
これは議論の一種であり、相手なりの価値観なのだと。
それでも身体は、
「また否定された」と判断していた。
優生思想について
優生思想は、しばしば理性的な言葉で語られる。
社会の負担、遺伝、倫理。
一見すると整ったロジックに見える。
けれど、それが個人に向けられたとき、
それは単なる意見ではなくなる。
「あなたの存在は望ましくない」
そういうメッセージとして機能する。
私はそのとき、
自分の過去と現在をまとめて否定された感覚になった。
私は、子どもを持ちたいと思っている。
ただしそれは、衝動ではない。
・病状のコントロール
・パートナーとの関係性
・育てる環境
そういった条件を、現実的に考えた上での希望だ。
だからこそ、
「産むな」という単純な言葉には納得できなかった。
私は、その人に対して反論した。
感情的にではなく、
どこが問題なのかを整理して伝えた。
そして最終的に、距離を置いた。
これは、相手を否定するためではなく、
自分を守るための判断だった。
あの日、はっきりしたことがある。
人は、言葉で傷つくのではなく、
「その言葉が触れる記憶」によって傷つく。
私にとって「産むな」に近い言葉は、
過去の否定と直結していた。
だから、身体が反応した。
あのとき感じたしびれや耳鳴りは、
弱さではなく、防御反応だったのだと思う。
それだけ、自分の人生を守ろうとしていた。
私は、障害を持っている。
同時に、自分の人生を選び取ろうとしている人間でもある。
その両方を、切り離すつもりはない。